このブログが起ち上がって間もない頃、
スタッフのんに言われた。
「新しいブログのタイトルの“ユウ・フウ・ドゥ”って何ですか?」
「ユウ・フウ・ドゥ??」
「ジャワ島のマントラか何かですか?」
「!?!?!!!!」
ガクゼンとした。
ここは「ユウ・フウ・ドゥ」ではなくて「YO-FU-UDON→→洋風うどん」だ。
このような間違いがグローバルに起きていると困るので、
今日は「洋風うどん」の話をします。
私が通っていた小学校の近くに、「左近-さこん-」という和風甘味処があった。
寡黙で仕事熱心なご主人と、同じく寡黙で和風美人な奥さまの2人で切り盛りしていた。
お店はいつも満員、外に並んで待つ日も多く、
今思えばお客さんの熱さと、ご夫婦2人の静けさのコントラストは絶妙だったなぁ。
そこの一番人気のメニューが・・というより全ての人が必ずオーダーしていたのが
「洋風うどん」だった。
小学3年生くらいの時だったと思う。
大親友・お寿司屋さんの弘子ちゃんのママが
「おうどん食べましょう」と、私たちを連れて行ってくれた。
待つこと数十分。
アツアツの和風土鍋から、モウモウと立ち昇る湯気と共に運ばれてきたそれは、
真っ赤なトマトスープに緑の輪切りピーマンが散らされ、
黄色いチーズが厚切りチャーシューの上でとろりととけてる!
「たぬきうどん」ひとすじだった私にとって、ショーゲキのビジュアルだった。
当時ではあまりにモダンで斬新な…見たこともないうどんワールド。
「妖怪人間ベム」のオープニングのように、ぐつぐつぼこぼこっと赤いスープが私に向かって跳ねてるよ。
「食べられないかもしれない。。」
好き嫌いの激しく多かった私には大きな不安がよぎった。
よそのお宅や、連れて行っていただいた先で、食べ物を残すというのは
子ども心にも大変苦しいものなのだ。
その少し前にお友達のお誕生会に招かれた時も、私にとって難題の「小豆」が登場した。
お赤飯と、お汁粉・・ダブルでーー!!
こっそりとご飯の中から小豆を取りだし、さりげなくお汁粉に混ぜて残しちゃったりして。
とにかく色々な工夫が必要な時代だったのだ。
話がそれたが、
しかし、その洋風うどんの味はいまだかつて知り得たことのない美味しさだった。
その日から私の洋風うどんLIFEが始まった。
小学校の卒業式の後も、仲良しグループで左近に行ったことを思い出す。
中学・高校・大学・・と、私はせっせと友人を連れて行った。
皆が洋風うどんのとりこになった。
週に何回も通った。
食後のチョコレートパフェも、左近ならではの絶品だった。
☆チョコレートとバニラアイスのシンプルで清楚なパフェ。
ところが大学時代のある日。
突然左近は閉店したのだ。
ご夫婦はどこか遠いところへ引っ越してしまった。
閉められたままのシャッターには、その旨書かれた小さな貼り紙がひとつあった。
そしてその紙の余白は、皆の悲鳴にも似たメッセージで埋まっていた。
「どちらに行かれたのですか?」
「どこかで再開されることがあれば教えてください!」
どんな遠くにでもついて行きます。皆がそんな想いだったのだ。
しかしその願いは叶うことはなかった。
となればできることはただひとつ。
自分で作る。
あの心地良かった空間を思い出し、あのスープの湯気と色を思い出し、
試行錯誤を重ねた結果、どうにか似たようなものは作れるようになった。
ご主人のレシピと素晴らしいテクには遠く及ばないけれども。
☆本家セッティング図。今もこれを踏襲しております。
もちろん、相方もすっかり洋風うどんに魅入られ、早30有余年。
今でも週に1度くらいの割合でテーブルに登場。
3日連続することもあり。
我が家に訪れる人も、皆、大好き。
真っ赤にぐつぐつ煮えたぎる姿を見て
「赤うどん♡」と言った人もいれば、「地獄うどんッ!」と呼んだ人もいる。
リフレッシュしたい時、インスピレーションが欲しい時、
子ども心にアクセスしたい時、大喜びしたい時、とにかくエンジンかけたい時、
洋風うどんを食べると、燦然と輝く太陽が自分の中に昇って来る。
・・書いてみてすごいと思うが、本当にそうなのだ。
すごい発動力なのだ。
日常のそんなスペシャルな存在を、
そしてそんなスペシャルな時をこのブログに書こうと
タイトルにした次第です。
This is YO-FU-UDON.